美術館が苦手

絵を描くのは好きだけど、観るのがすごく苦手である。いろんな作品を見て、学ぶべきだと思うのだけれど、美術館に行くのがおっくうなのである。理由は分かっている。

ひとつは、美術館は疲れるってこと。ホント疲れる。なんであんなに疲れなきゃいけないのかと思うぐらい疲れる。しかも、よく分からない絵に、うむ、とか、ふむふむ、とか、むむむ、とか、いちいち感心しなければならないのも疲れる。いや、鑑賞のツボが分かっていない自分の至らなさだとは分かっているのだけれど。

ふたつめは、額縁とか表題とかが苦手。絵の先生は、額縁に入れないのは裸で放り出すようなものだから、絵にあった額縁を選ぶのは大事だよ、とか、額縁が絵にあっていないとせっかくの絵の良さも損なわれるよ、とおっしゃる。もっともだと思う。確かにヘンな額縁を付けると絵が死ぬというのはあるだろう。でも、額縁で生きる絵って、そもそもよくないんじゃね?とも思ってしまう。額縁も含めて作品である、と定義すれば話は別だけれど。

同じように、表題も。書籍や音楽は、中身がすべて見えないので、表題を付けることも必要だと思うけれど、絵は作品がすべてそこにさらけ出されているわけだから、表題なんていらないと思う。「無題」という表題すらいらないと私は思う。むしろ、絵を見た人が表題を付けてくれればいいと思う(ウェブならば、それもできるし、ほかの人がどんな表題を付けたかも見られるので面白いなぁ、と思うのだけれど、誰かやってるだろうか?)。これもまた、表題も含めて作品である、と定義すれば話は別。

まあ、そんなわけで、美術館は疲れる。インタラクティブアートだと話は別だけれど、高い場所に、ガラスケースと額縁で着飾った絵ってのはなかなか疲れる。

むしろ、アトリエの床に無造作に置かれているキャンバスのほうに私は惹かれる。

あ、でも、誘ってくださったら行きますよ、美術館。って誰も誘ってくれる人いないけど。

絵を描く理由

芸術系の才能がまったくない私は、楽器が演奏できたり、絵が描けたりする人を無条件に尊敬している。小中学校の授業でも、平均点より上の評価をもらったことがないぐらいだから。そんな私が数年前から、絵を描くようになった。

なぜ、絵を描くようになったのか、そのきっかけは覚えていない。そういえば、注射が大の苦手な私が、気まぐれに献血に行って、それが趣味のようになってしまったのとちょっと似ている(このブログはちゃんとした出版物の原稿ではないので、話は枝葉末節に飛ぶが気にしないでほしい)。

「脳の右側で描けワークブック」という本を買って、その本のレッスンをやったのがそもそもなのだけれど、なぜその本を買ったのかというきっかけがわからない。

それまで、絵は感性で描くものだと思っていたのだけれど、意外に論理で描くという側面が大きいことに気付いた。芸術としての絵なら、それに感性が加わるのだろうけれど。そういう意味では、むしろ「脳の右側で描け」は、右脳ではなく左脳を使った描き方だと思う。まあ、右脳左脳というのはけっこうトンデモな話ではあるのだけど。

そんなことはどうでもいい。私が絵を描く理由。人に聞かれると、

「書籍に掲載する図解やイラストを自分で指示できるようになりたい」

とか、

「絵が描ける人が世界をどう見ているのかを知りたい」

などと言っている。もちろん、嘘ではない。表現という仕事に携わっている私なので、文字以外での表現方法も身につけたいと思っているわけ。でも、それは理由ではなく目的かもしれない。

あ、ちなみに、イラストの指示を絵で示すと、イラストレーターさんがその絵に引きずられてしまって、面白い発想が生まれないというマイナス面もあるのだけど。

先週、ふと思いついた。

「初恋の人の肖像を記憶の底から引き出して描きたい」

というのもロマンチックでいいじゃないか、と。写真に残っていない、記憶の奥底のイメージをよみがえらせる、というのもステキだと思う。老境に差しかかった主人公が絵画教室に通い始めて、寿命が尽きるまでに初恋の人の絵を描く……という小説も書けそうだ。

そんなことを考えながら、私も昨日から絵画教室に通い始めた。それまで我流で描いていたので、基礎からきちんと習ってみたいということもあって。

まあ、なんだかんだいって絵を描くのは楽しい。ただ、それだけなのだけど。