紙の書物が絶滅しない理由

「もうすぐ絶滅するという紙の書物について」をこれから読むのだけど、その前にこの本とは関係なく自分の考えを書いておこう。

電子書籍が普及しても、紙の書物はなくならないと主張する人の多くが、テレビが登場してもラジオはなくならなかったとか、テレビが登場しても映画はなくならなかったというのを引き合いに出しているけれど、ちょっと違うのではないかと私は思っている。いや、本質は違わないのかもしれないけれど、引き合いに出しただけでは「なぜ」に答えていない。

本質は「帯域」ではないかと思っている。帯域というとネットワーク関係の業界の人にしかわからないので、情報の豊かさ、と言い換えてもいいだろう。

古来、情報を記録するために使われてきた石版や竹簡は、メディアとしては絶滅し、紙の書物がそれに取って代わった。紙が圧倒的に便利だというのも大きいだろうが、単に情報を記録するだけでなく、情報を伝達するという役割が生まれた。

と、同時にどういった情報をどれだけ伝えられるかという「帯域」という性質を持つことが宿命づけられた。内容だけでなく、手触り、重み、質感、場合によっては匂いなど、五感に対して開かれたメディアになったわけだ。

で、電子書籍なのだけれど、さまざまな意味で便利さは増した。いや、紙の書物のほうが便利なところもあるという向きもあるかもしれないが、いずれそれは克服されるだろう。たとえば、電子書籍では、紙をぱらぱらとめくって内容をブラウズすることができない、といわれるが、それはソフトウェアが解決してくれるはすだ。

けれど、帯域の問題はなかなか解決が難しい。テレビはラジオよりもはるかに帯域が広い。が、映像の帯域が拡大した反面、音声の帯域は縮小した。ラジオは音声のみのメディアなので、テレビ以上に音声を伝える必要がある。その、帯域の差の分だけ、ラジオが生き残っているのではないかと思う。

ところが、電子書籍に関しては、帯域はかえって紙の書物よりも狭いのではないかと思う。電子化によって帯域の一部が拡張されたというのもあるだろうが、手触りや重みなどは完全には取って代われない。電子書籍では、どの書物も同じ手触りで、薄い書籍も厚い書籍も同じ重さである。帯域のそういった部分がごっそりと抜け落ちている。

だから、そういう差分がある限り、紙の書物はなくならない、と私は思うのだ。ただ、紙やインクなどの資源が枯渇したり、私たちが電子書籍の提供する帯域に完全に適応し、どの書物も同じ手触りで、同じ重さであるということを違和感なく受け入れられるようになれば話は別だけれど。

(10/20追記)

読み返してみると、通信用語の「帯域」を比喩的に使っているのですが、通信用語そのものとして使っているかのように読み取れますね。こりゃ商業出版としてはダメだ(ブログだからまあいいとしよう)。帯域というよりも、スペクトラムといったほうが比喩としては適切なのかも。スペクトラムで思い出したけれど、ホーンセッションのすごくかっこいいバンドがかつてあったような……。思い出したので探してみよう。

クラウドがなぜいまホンモノになったのか

いまさらだけど、クラウドの時代だ。サーバーやネットワークの性能が上がり、新しいソフトウェアなども開発され……というわけなのだけれど、なぜクラウドがホンモノなのか、ということに関して、それは、本質的な説明になっていないと思う。確かにそうなのだけれど、ちょっと抽象化して考えてみると、クラウドが特別なものではなく、コンピューターとネットワークが生まれたときからずっと克服しようとしてきた問題が根っこにあるというのがわかる。表面的には大きな変化なのだけれど、本質は変わらないのではないかと思う。

キーワードは「ボトルネック」。

システム全体の性能は、もっとも性能が低い機器に引きずられるわけだけれど、そういったボトルネックを克服するために、紙テープが紙カードになり、ダム端末になり、インテリジェント端末(パソコン)に、とさまざまな機器が開発されてきた。一方で、サーバーの能力が上がってくると、逆にX端末やシンクライアントなどのように端末側の負荷を軽くしようとしたりしてきた。まるでシーソーのように。

ところが、なかなか性能が向上せずに、ボトルネックとして残っていたのがネットワークだ。最近になって、光ファイバーなどの普及によって急激に性能が向上してきたので、ようやくネットワークがボトルネックとならなくなったわけ。

データを自分のほうに置いておこうが、サーバーのほうに置いておこうが、ほとんどパフォーマンスに変わりがなくなってきた。ならば、サーバーに置いて、いろんなところから自由に使えるようにしたほうが便利じゃないか、と。

これまでのネットワークでは、回線の遅さというボトルネックを回避するために、サーバー側、クライアント側でいろんな工夫がなされてきた。最近になって、回線をボトルネックと考えなくてもいいようになってきたから、ネットワークを意識しないクラウドな環境が広がってきたというわけ。

ま、そんな感じ。技術が進歩するといろんな新しいものが出てくるけれど、その底に流れるものは意外に変わっていないという話。まあ、コストやらなんやらいろんな要因はあるのだろうけれど、トレンドを読み解くには一段階抽象化することが重要なんですね。

ボトルネックの解消という古くて新しい問題がクラウドの根っこにある、という話は、私の知る限り誰も語っていない。コンピューターとネットワークの歴史とともに歩んできた年の功かも。

自由で平等なネットワークコミュニケーション?

ネットワークコミュニケーションの場では、年齢も性別も仕事も肩書きも関係なく平等に発言できるのがいい、という人が多い。あまり深く考えずにそう信じ込んでいる人やそれをオウム返ししたりする人もいるようだけど、私はどちらかというとそういうコミュニケーションはあまり好きじゃない。発言した人がどういう経験を積んできて、どういうバックグラウンドを持っていて、どういう意図でその発言をしたのかが分かるほうがいい。

好みの問題といえばそれまでだけど。

同じ言葉でも、発言する人のバックグラウンドや自分との関係が違うと、まったく違った意味になって、相手の意図と違う解釈をしてしまったり、挙げ足取りのようなことをしてしまう場合もあるから。逆に「被害者」になることも多い。だから、相手が誰であるかが分かっていたほうが安心、安全なわけ。

発言した人がどういう人であるかということも含め、文脈から離れて言葉の意味を特定するのはものすごく難しいことだと思う。もちろん、そういうのをできるだけ抜きにして、純粋に議論したい、普遍を求めたいというのも立派だとは思うけれど。

だから、ネットワークコミュニケーションには年齢や地位といった関係がないのがいい、というのではなく、年齢や地位などに関係しない議論をしたいときに、ネットワークコミュニケーションは便利なのだ、と捉えた方がいいんじゃないかと思う。

蛇足だけれど、年齢や地位などに関係がないから乱暴な言葉を使っていい、と勘違いしている人もいるようだけど、リアルなコミュニケーション以上に、相手に対して最大限の敬意を払うのが正しい使い方だと思う。