結社に入るのをためらう理由

たとえば、冷ご飯にラップをかけたものを展覧会に出展して「これが芸術だ」と私が言ったとしても、まったくといっていいほど無視されるだろう。というより、さんざんに罵倒されるだろう。だが、一流と言われる芸術家が同じものを出展したら、反応は大きく異なるはずだ。

また、たまたま同じ俳句を有名な俳人と私が作ったとしよう。仮に私のほうが先に作って発表していたとしても、たぶん私の作った句よりも有名な俳人の句のほうが高く評価されるはずだ。

現代の芸術は、誰の作品かということが重要なのはもちろんだが、それ以上に、誰が評価するかということがとても重要。芸術にも進化の系図みたいなものがあって、それらをふまえたうえで、最先端のさらに一歩先を行ったり、系図に新しい枝を書き加えることが、その作品の価値につながる。だから、それらをふまえず、たまたま、ポンと同じものを出したとしても評価されないというわけ。

デュシャンが出展するから、デュシャンを評価する人がいるから、便器が芸術になるというのと同じだ。

作品の良し悪しがすべてじゃないなんておかしい、という人もいるだろうが、そういう人は、何もわかっていないど素人だと蔑まれるのがオチ。

私は、それに異議を唱えようとする気はない。茶道でも、華道でも、柔道でも、剣道でも、型を身に付けたうえで、それを打ち破っていくのが、文字通り「型破り」なわけで、最初から無茶なことをやっても、それはただのお調子者でしかない。武道の場合だとたいていはそれでは勝てないのではっきりと分かる。

でも、俳句に関してはどうもそういう道筋をたどるのが疎ましく感じる。というのも、結社=伝統ではないからだ。結社を否定する気はないし、その中で揉まれるのは上達の近道だろうと思う。まあ、自分がそういう組織に合わないというのもあるし、打たれ弱いというのもある。けれども、自分で気づきたいのだ。近道ではないかもしれないが、師匠に指摘されて気づくのではなく、一週間後、半年後、一年後に、自分の句を読みかえして、こりゃいかんわ、と気づきたいのだ。俳句を始めた頃に

炎帝に頭を垂れる日輪草 恭烏

という句を作ったことがある。それから数年経つが、今なら、

炎帝に頭垂れたる日輪草 恭烏

という句にしただろう。さらに何年か経つとまた違う句にしたくなるかもしれないし、元の句のほうがよかった、と思うかもしれない。でも、師匠に添削されて、ハイ、ソウデスネ、とその場で納得してしまわずに、自分で気づきたいのだ。……というのは現時点での考え。もしかすると、この人に近づきたいという人が現れて結社に入るかもしれない(好きな俳人は何人かいるけど、今は、それらの人と私は違う、と思っている)。

あ、あと、全然違う話だけど「絡めとられる」ということについて書きたかったのだが、長くなるのでまたにしよう(←これは自分用メモ。忘れてしまわないように)。