時間稼ぎ屋

時間稼ぎといっても、締切を引き延ばす話ではなく、時間で稼ぐという話。というか、そういう夢を見た。夢なので、覚めてみるとアホらしいのだけれど。

その時間稼ぎというのは、一種の納品代行業のようなもので、締切よりも前に納品できたらキックバックがあり、締切を過ぎるとペナルティがある、というもの。

たとえば、私はライターなので、その例で示すと、時間稼ぎ屋はライターと編集者の間に立って、

・ライターは時間稼ぎ屋にあらかじめ1万円払う(後で精算時に返してもらう)

・締切よりも早く原稿を送れば、時間稼ぎ屋から1日につき100円バック

・締切を過ぎれば、時間稼ぎ屋に1日100円払う

といったもの。締切をなかなか守れないライターが、なんとか締切を守るモチベーションとして時間稼ぎ屋を使う、と。結局、締切を守れなかったライターは時間稼ぎ屋を二度と使わないのだけれど、意外に時間稼ぎ屋はそれでも採算が取れる。

まあ、そんな夢だった。実際のところ、そういう商売は成り立たないだろうと思うのだけれど、夢の中でシステムを考えている自分って何、と思ったのだった。

紙の書物が絶滅しない理由

「もうすぐ絶滅するという紙の書物について」をこれから読むのだけど、その前にこの本とは関係なく自分の考えを書いておこう。

電子書籍が普及しても、紙の書物はなくならないと主張する人の多くが、テレビが登場してもラジオはなくならなかったとか、テレビが登場しても映画はなくならなかったというのを引き合いに出しているけれど、ちょっと違うのではないかと私は思っている。いや、本質は違わないのかもしれないけれど、引き合いに出しただけでは「なぜ」に答えていない。

本質は「帯域」ではないかと思っている。帯域というとネットワーク関係の業界の人にしかわからないので、情報の豊かさ、と言い換えてもいいだろう。

古来、情報を記録するために使われてきた石版や竹簡は、メディアとしては絶滅し、紙の書物がそれに取って代わった。紙が圧倒的に便利だというのも大きいだろうが、単に情報を記録するだけでなく、情報を伝達するという役割が生まれた。

と、同時にどういった情報をどれだけ伝えられるかという「帯域」という性質を持つことが宿命づけられた。内容だけでなく、手触り、重み、質感、場合によっては匂いなど、五感に対して開かれたメディアになったわけだ。

で、電子書籍なのだけれど、さまざまな意味で便利さは増した。いや、紙の書物のほうが便利なところもあるという向きもあるかもしれないが、いずれそれは克服されるだろう。たとえば、電子書籍では、紙をぱらぱらとめくって内容をブラウズすることができない、といわれるが、それはソフトウェアが解決してくれるはすだ。

けれど、帯域の問題はなかなか解決が難しい。テレビはラジオよりもはるかに帯域が広い。が、映像の帯域が拡大した反面、音声の帯域は縮小した。ラジオは音声のみのメディアなので、テレビ以上に音声を伝える必要がある。その、帯域の差の分だけ、ラジオが生き残っているのではないかと思う。

ところが、電子書籍に関しては、帯域はかえって紙の書物よりも狭いのではないかと思う。電子化によって帯域の一部が拡張されたというのもあるだろうが、手触りや重みなどは完全には取って代われない。電子書籍では、どの書物も同じ手触りで、薄い書籍も厚い書籍も同じ重さである。帯域のそういった部分がごっそりと抜け落ちている。

だから、そういう差分がある限り、紙の書物はなくならない、と私は思うのだ。ただ、紙やインクなどの資源が枯渇したり、私たちが電子書籍の提供する帯域に完全に適応し、どの書物も同じ手触りで、同じ重さであるということを違和感なく受け入れられるようになれば話は別だけれど。

(10/20追記)

読み返してみると、通信用語の「帯域」を比喩的に使っているのですが、通信用語そのものとして使っているかのように読み取れますね。こりゃ商業出版としてはダメだ(ブログだからまあいいとしよう)。帯域というよりも、スペクトラムといったほうが比喩としては適切なのかも。スペクトラムで思い出したけれど、ホーンセッションのすごくかっこいいバンドがかつてあったような……。思い出したので探してみよう。

クラウドがなぜいまホンモノになったのか

いまさらだけど、クラウドの時代だ。サーバーやネットワークの性能が上がり、新しいソフトウェアなども開発され……というわけなのだけれど、なぜクラウドがホンモノなのか、ということに関して、それは、本質的な説明になっていないと思う。確かにそうなのだけれど、ちょっと抽象化して考えてみると、クラウドが特別なものではなく、コンピューターとネットワークが生まれたときからずっと克服しようとしてきた問題が根っこにあるというのがわかる。表面的には大きな変化なのだけれど、本質は変わらないのではないかと思う。

キーワードは「ボトルネック」。

システム全体の性能は、もっとも性能が低い機器に引きずられるわけだけれど、そういったボトルネックを克服するために、紙テープが紙カードになり、ダム端末になり、インテリジェント端末(パソコン)に、とさまざまな機器が開発されてきた。一方で、サーバーの能力が上がってくると、逆にX端末やシンクライアントなどのように端末側の負荷を軽くしようとしたりしてきた。まるでシーソーのように。

ところが、なかなか性能が向上せずに、ボトルネックとして残っていたのがネットワークだ。最近になって、光ファイバーなどの普及によって急激に性能が向上してきたので、ようやくネットワークがボトルネックとならなくなったわけ。

データを自分のほうに置いておこうが、サーバーのほうに置いておこうが、ほとんどパフォーマンスに変わりがなくなってきた。ならば、サーバーに置いて、いろんなところから自由に使えるようにしたほうが便利じゃないか、と。

これまでのネットワークでは、回線の遅さというボトルネックを回避するために、サーバー側、クライアント側でいろんな工夫がなされてきた。最近になって、回線をボトルネックと考えなくてもいいようになってきたから、ネットワークを意識しないクラウドな環境が広がってきたというわけ。

ま、そんな感じ。技術が進歩するといろんな新しいものが出てくるけれど、その底に流れるものは意外に変わっていないという話。まあ、コストやらなんやらいろんな要因はあるのだろうけれど、トレンドを読み解くには一段階抽象化することが重要なんですね。

ボトルネックの解消という古くて新しい問題がクラウドの根っこにある、という話は、私の知る限り誰も語っていない。コンピューターとネットワークの歴史とともに歩んできた年の功かも。

絵を描く理由

芸術系の才能がまったくない私は、楽器が演奏できたり、絵が描けたりする人を無条件に尊敬している。小中学校の授業でも、平均点より上の評価をもらったことがないぐらいだから。そんな私が数年前から、絵を描くようになった。

なぜ、絵を描くようになったのか、そのきっかけは覚えていない。そういえば、注射が大の苦手な私が、気まぐれに献血に行って、それが趣味のようになってしまったのとちょっと似ている(このブログはちゃんとした出版物の原稿ではないので、話は枝葉末節に飛ぶが気にしないでほしい)。

「脳の右側で描けワークブック」という本を買って、その本のレッスンをやったのがそもそもなのだけれど、なぜその本を買ったのかというきっかけがわからない。

それまで、絵は感性で描くものだと思っていたのだけれど、意外に論理で描くという側面が大きいことに気付いた。芸術としての絵なら、それに感性が加わるのだろうけれど。そういう意味では、むしろ「脳の右側で描け」は、右脳ではなく左脳を使った描き方だと思う。まあ、右脳左脳というのはけっこうトンデモな話ではあるのだけど。

そんなことはどうでもいい。私が絵を描く理由。人に聞かれると、

「書籍に掲載する図解やイラストを自分で指示できるようになりたい」

とか、

「絵が描ける人が世界をどう見ているのかを知りたい」

などと言っている。もちろん、嘘ではない。表現という仕事に携わっている私なので、文字以外での表現方法も身につけたいと思っているわけ。でも、それは理由ではなく目的かもしれない。

あ、ちなみに、イラストの指示を絵で示すと、イラストレーターさんがその絵に引きずられてしまって、面白い発想が生まれないというマイナス面もあるのだけど。

先週、ふと思いついた。

「初恋の人の肖像を記憶の底から引き出して描きたい」

というのもロマンチックでいいじゃないか、と。写真に残っていない、記憶の奥底のイメージをよみがえらせる、というのもステキだと思う。老境に差しかかった主人公が絵画教室に通い始めて、寿命が尽きるまでに初恋の人の絵を描く……という小説も書けそうだ。

そんなことを考えながら、私も昨日から絵画教室に通い始めた。それまで我流で描いていたので、基礎からきちんと習ってみたいということもあって。

まあ、なんだかんだいって絵を描くのは楽しい。ただ、それだけなのだけど。

自由で平等なネットワークコミュニケーション?

ネットワークコミュニケーションの場では、年齢も性別も仕事も肩書きも関係なく平等に発言できるのがいい、という人が多い。あまり深く考えずにそう信じ込んでいる人やそれをオウム返ししたりする人もいるようだけど、私はどちらかというとそういうコミュニケーションはあまり好きじゃない。発言した人がどういう経験を積んできて、どういうバックグラウンドを持っていて、どういう意図でその発言をしたのかが分かるほうがいい。

好みの問題といえばそれまでだけど。

同じ言葉でも、発言する人のバックグラウンドや自分との関係が違うと、まったく違った意味になって、相手の意図と違う解釈をしてしまったり、挙げ足取りのようなことをしてしまう場合もあるから。逆に「被害者」になることも多い。だから、相手が誰であるかが分かっていたほうが安心、安全なわけ。

発言した人がどういう人であるかということも含め、文脈から離れて言葉の意味を特定するのはものすごく難しいことだと思う。もちろん、そういうのをできるだけ抜きにして、純粋に議論したい、普遍を求めたいというのも立派だとは思うけれど。

だから、ネットワークコミュニケーションには年齢や地位といった関係がないのがいい、というのではなく、年齢や地位などに関係しない議論をしたいときに、ネットワークコミュニケーションは便利なのだ、と捉えた方がいいんじゃないかと思う。

蛇足だけれど、年齢や地位などに関係がないから乱暴な言葉を使っていい、と勘違いしている人もいるようだけど、リアルなコミュニケーション以上に、相手に対して最大限の敬意を払うのが正しい使い方だと思う。

気が合うということ

これまでの人生の中で、「気が合う」というのを実感したことはどれぐらいあるだろうか。単に好みが一致するといった意味でなく、その瞬間に相手と自分の感覚が完全にシンクロするような経験。私の記憶ではたったの2回。それも大したことではない。

も う20年以上前のことになる。友人とエレベーターに乗っていて、扉が閉まりかけたところにアタッシュケースを挟んで乗り込んできたビジネスマンがいた。彼 は私たちに気付き、とっさに「失礼」と詫びたのだが、その立ち居振る舞いがあまりにも様になっていて、いい意味で呆然としてしまった。友人もそんな状態 で、ビジネスマンがエレベーターから降りたあと、顔を見合わせて「かっこいー」と同時につぶやいたのが1度目。

もう1回は数年前。スイミン グスクールに通っていたとき。いつもは深いほうのプールで練習するのだが、別のクラスが深い方にチャレンジするのことで、浅いプールに移った。プールにたぷんと入るなり、まだ階段があると思っていたのに段がなかったかのような(実際には、浅かったのでそれとは逆なのだけれど)期待と異なる妙な感覚にとら われた。が、ちょうどそのとき、隣で私と同時に水に入った女性がいて、彼女も同じ感覚にとらわれたらしく、思わず顔を見合わせてしまった。「気が合った」 と思った。

まあ、そんなわけで、私の「気が合う」体験はある種の驚きに同時に遭遇した瞬間にしか訪れていないのだけれど、合気道を習うと、 そういう感覚が体験できるかも、とちょっと興味津々なのである。高校の時の書道の教師が合気道十段の阿部醒石さんで、当時はそんなに偉い先生だとは知ら ず、ただ「愛の武道」だという言葉だけしか覚えていなかったのだけど、ここにきて、ちょっと習ってみたいな、と思っている。理由はほかにもあるのだけど、 それについてはいずれまた。