私がクルマを手放した理由

維持費がかかるとか、子供が大きくなって使わないからとかまあいろいろとあるんだけど、最大の理由は、怖くなった、ということ。

いろんなものがよく見えるようになったと同時にいろんなものがあまり見えなくなったから。

細い道を徐行もせずに飛ばしているクルマがあるけど、子供とかがふっと飛び出したらどうすんの?「大丈夫。反射神経いいし、これまでも事故とかしてないし」という人もいるだろうけど、それは単に運がよかっただけ。

これまであまり気にしていなかった危険な箇所がイヤというほど見えるようになってきた。もう計算量爆発を起こしそうなぐらい。

だから、私は事故の危険がある場所は最徐行。交差点ではきちんと左右確認。

だが、しばらく前から、左右をチラッと見るだけでは安心できなくなってきた。脳が周囲の情報を処理する速度が落ちてきたような気もする。右を見て、左を見て、もいっかい右を見て、左を気にしながらゆっくり出る。

クルマを手放す少し前のこと。そんな風にして、完璧に安全を確認して、ゆっくりと路地から大きな道に出たのだけど、右からクルマがぶんっと目の前を通り過ぎて、冷や汗をかいた。

まったく見えていなかった。

25年ほど前、飛び出してきた野良犬を避けきれずに事故ってから、バイクをやめたのだけれど、こんどはもう事故になる前にやめよう、と。そう思った。

蛇足。クルマの維持費を考えれば、タクシーに乗ったほうが安い。だけど、私より高齢の運転手さんだと微妙に不安になるのであった。まあ事故っても自分の責任にならないという安心はあるけど。

 

高校の教育内容について思うこと

高校の教育内容って、質的にも量的にもかなりなものだと思う。まあ、「高等」学校なのだから当然なのだけれど、多くの生徒は課程を十分にこなせずに卒業しているのではないかと思う。

そこでだ。

私は文系とか理系とかに分けるのはあまり好きじゃないんだけれど、便宜的に文理に分けるとして、

■文系

・日本史や世界史など、文系の授業についてはこれまで通り、しっかりと知識を身に付けてもらう。詰め込みでもいい。大学生になってから「考える」ことを始めるためのネタをしっかりと頭に入れてもらう。

・理系の知識については、中学までの内容で十分。ただし、高校では、その中の1つのテーマに絞って、じっくりと研究する。たとえば「リボゾーム」についてのみ深く研究する、「ベクトル」についてのみ深く学ぶ、などなど。文系に進むからこそ、今後身に付ける機会がほとんどないであろう理系の方法論をここで学んでもらう。

■理系

・理系の授業についてはこれまで通り、しっかりと知識を身に付けてもらう。大学生になってからの研究に必要な知識を詰め込んでおく。

・文系の授業は、1つのテーマに絞って深く研究する。たとえば「応仁の乱」について詳しく調べる、「蕪村の俳句」について詳しく論じる、などなど。理系に進むからこそ、文系の方法論をここで学ぼうというわけ。理系の方法論は大学になってからじっくりやればいい。

 

こうすれば、受験のためだけの暗記の苦労から解放される。いずれも、1クラス40人~50人いれば、グループで作業をするとしても、それだけでかなりの研究になるはず。成果はクラスで共有すればいいし、次の世代にも受け継ぐことができるはず。

ただ、授業のやり方や、受験制度を変えないと、「研究」がテキトーになってしまうので、難しいだろうけど。

それと……、

こういう提言をすると、学力テストの平均点が下がる、と言われそうだけれど、別に平均点が下がってもいいと思う。平均的になんでもできる生徒を育てるより、それぞれに得意なことを持つ生徒を育て、みんなでコラボレーションできるようにしたほうが、実りが大きいのではないかと思う。そのために、狭い領域に専門化するのではなく、異なる領域の方法論もある程度は理解できるようにする、というところがミソ。

美術館が苦手

絵を描くのは好きだけど、観るのがすごく苦手である。いろんな作品を見て、学ぶべきだと思うのだけれど、美術館に行くのがおっくうなのである。理由は分かっている。

ひとつは、美術館は疲れるってこと。ホント疲れる。なんであんなに疲れなきゃいけないのかと思うぐらい疲れる。しかも、よく分からない絵に、うむ、とか、ふむふむ、とか、むむむ、とか、いちいち感心しなければならないのも疲れる。いや、鑑賞のツボが分かっていない自分の至らなさだとは分かっているのだけれど。

ふたつめは、額縁とか表題とかが苦手。絵の先生は、額縁に入れないのは裸で放り出すようなものだから、絵にあった額縁を選ぶのは大事だよ、とか、額縁が絵にあっていないとせっかくの絵の良さも損なわれるよ、とおっしゃる。もっともだと思う。確かにヘンな額縁を付けると絵が死ぬというのはあるだろう。でも、額縁で生きる絵って、そもそもよくないんじゃね?とも思ってしまう。額縁も含めて作品である、と定義すれば話は別だけれど。

同じように、表題も。書籍や音楽は、中身がすべて見えないので、表題を付けることも必要だと思うけれど、絵は作品がすべてそこにさらけ出されているわけだから、表題なんていらないと思う。「無題」という表題すらいらないと私は思う。むしろ、絵を見た人が表題を付けてくれればいいと思う(ウェブならば、それもできるし、ほかの人がどんな表題を付けたかも見られるので面白いなぁ、と思うのだけれど、誰かやってるだろうか?)。これもまた、表題も含めて作品である、と定義すれば話は別。

まあ、そんなわけで、美術館は疲れる。インタラクティブアートだと話は別だけれど、高い場所に、ガラスケースと額縁で着飾った絵ってのはなかなか疲れる。

むしろ、アトリエの床に無造作に置かれているキャンバスのほうに私は惹かれる。

あ、でも、誘ってくださったら行きますよ、美術館。って誰も誘ってくれる人いないけど。