大晦日に思ったこと

大晦日である。天下国家を論じる気はないし、ゴシップネタで現実逃避する気もないので、きわめて個人的な話になるけれど、今年一年を振り返ってみようと思う。

今年は、いろんな意味で「本性」があらわになった年ではないかと思っている。震災が(というより原発事故が)国民をバラバラにしたと言われるけれど、もともとバラバラだったのが表面化しただけではないかと思う。別にそれが嘆かわしいことだとは思わない。むしろ、これまで見ないふりをしていたことについて考える機会が得られたのだから。自分の考えと異なる考えは拒絶したくなるけれど、こういう機会だから、なぜそう考えるのかを積極的に聞きたいと思う。敵を知り、己を知れば……というけれど、実際には、敵については知りたくないという気持ちが勝ってしまって、簡単にはいかないものだ、とも思ったけれど。

「平和学」というのも考えた。人類は有史以前から戦うことばかり考えてきた。そのための知識やツールは膨大で、現在の政治や文化を支える基本的な考え方の根っこの部分にも「戦うこと」が浸透していると思う。それに対して、戦わないための知識やツールはほとんど蓄積がない。これまでの何万年、何十万年、いや何百万年かの間に築かれてきた価値観が簡単に覆るわけはないので、それに対抗するためには、これからの何万年、何十万年という時間が必要だと思う。でも、実りを得るためには、種まきをしておく必要があるのではないかと思う。自分の世代はもちろん、子や孫の世代で十分な成果があげられることはないだろう。でも、現実的でないとか理想主義だと切って捨てるべきでもないと思う。何十万年というスパンで見た現実、と捉えたい。自分の寿命程度のスパンでしかものが見られない人には理解してもらえないかもしれないが。別にいますぐ世界中を武装解除せよ、とか、現実に攻撃を受けても抵抗するなと言っているわけではないし、戦うことと競うことは別だと思っている。ただ、理想と現実の二律背反ではなく、もっともっと長いスパンで考えないといけないな、と思ったわけ。

今年だけではないけれど、ここ数年、これまで生きてきた時間よりも残り時間のほうが少なくなっているという実感を抱いている。まあ、いろんなことを経験できたので、いつ逝ってもいい、とは思っているのだけれど、残り時間が限られていると思うとかなりあせる。しかも、何をしていいか迷ってばかりで、結局何も手につかない。これをやると、あれができないんじゃないか、とか、これをやっても十分に達成できなくて終わってしまうのではないか、とか。人間五十年……というので、残りは「おまけ」だと考えていたりしたが、おまけっていうのは中途半端だな、と思った。これまでの生き方とは違う生き方をまた0からやれるんだ、と考えたほうがいいかも。おまけではなく再出発かな。とりあえず、絵を描くのは楽しい。

今年は、クルマを売って、ケーブルテレビをやめた(テレビが一切みられなくなった)。でも、困ったことは何もない。断捨離なんていうけれど、いらないものをいくら捨てても、スッキリはするだろうけど、自分の生き方は変わらないと思う。自分が一番大切だと思っているもの(思い込んでいるもの)、一番高価なものを捨てないと生き方は変えられないと思う。そうはいっても、命とか、家族とか、住処なんかを捨てるのは無理だけど(世捨て人になれば確かに生き方は変わるけれど)。

あと、細かいこといろいろ。思いつくままに/で区切って書く。ネットは年齢や性別など関係なく議論できていい、というのを考えなしに信じている人がいるけれど、私はそうは思わない。相手がどういう経験を積んできて、どういう立場で発言しているのかが分からないとちゃんとした議論はできないと思う/ツイッターで議論しても不毛だと思う/人の信念を論理で変えることはほとんど不可能だと思う。考えを整理するのに論理は役に立つが、信念を変えるには、ユーモア、物語、映像……などが必要だと思う。そういうことを来年はもっと大切にしたい/批判によって信念が変えられることもないと思う。批判することが無駄だとは思わないが、個人的には批判は提案とセットにしたい/先日、「鯛焼きは頭から食べる派?尻尾から食べる派?」という質問がFacebookであった。ほとんどの人は「頭から」とか「尻尾から」と答えるけれど、私は「腹からかぶりつく派」。既存の枠組みにとらわれない考え方は大事だと思う/ツイッターの書き込みにはいろんなスタイルがあるけれど、自慢タイプ、大喜利タイプ、自分の言葉のない公式リツイートしまくりタイプ、暴言タイプなどが苦手かな。オリジナリティとオチのあるタイプが好きだな/苦手なことで思い出したけれど、私の三大苦手は事務処理と人の話を聞くことと彼岸花。彼岸花は無理として、事務処理と人の話を聞くことは苦手克服ができればなあ、と思う。得意なことは「思いつき」。まあ、アホな思いつきが多くて、すぐに破たんするのだけど。

ほかにもいろいろあるだろうけど、また思い出したら書こう。

絵を描き始めて気がついたこと

情報処理屋さん、という職種があるのかどうか分からないけど、たぶん私はそれ屋さんだ。この関係の仕事についたときから、「一度入力したものは入力しなおさない」という鉄則を徹底的に叩きこまれた。

が、絵を描き始めると、描いては消し描いては消し……を何度も何度も繰り返しながら作品を仕上げていく必要があることがわかった。一発でビシッと決めて、決して後戻りしない、というわけにはいかない。

ウォーターフォールモデルのように後戻りしないことを絶対だと思っていた私にはまだるっこしくも新鮮で、意外にも、それがとても楽しい。まあ、ウォーターフォールモデルそのものも「後戻りしない」というのは神話なのだそうだが(提唱者は後戻りしちゃダメなんてひとことも言ってないそうで)。アジャイルってわけでもないけれど、絵を描くときのやり方もいいな、と思うようになった。

もっと絵が上手くなれば後戻りも少なくなるかもしれないけど。

でも、よく考えてみると、それは決して後戻りではなくて、後戻りに見えるけれどスパイラル的に前に(上に)進んでいるのかもしれない。文章を書くのも同じで、以前は頭の中で構成やらなにやら組み立てて、一発で決めるという書き方に近かったのだけれど、最近は、かなりラフな文章から少しずつブラッシュアップするという書き方に変わりつつある。まあ、文芸屋さんじゃないから、味のある文章はなかなか書けないのだけれど。

ラーメン屋さんの記事と現実

帰りが遅くなるときは面倒だから外で食べてこいと言われているのだが、おうちごはんが好きなので、結局食べずに帰ってくることがほとんど。だが、先日、あまりに寒いので、ラーメン屋に入った。某チェーン店の関係の店で、開店記念でちょっとしたサービスもあったり。でも、お世辞にもうまいとはいえなかった。はっきりいうとまずかった。

翌日、ウェブの新聞記事を見ていたら、そのラーメン屋さんの話が載っていて(まさにその支店だった)、しょうゆラーメンが人気で、6割ぐらいの人がしょうゆラーメンを頼むとか、わざわざ遠方からその味を求めて食べにくる人もいるとか書かれてあった。

が、実際には、食券の自動販売機のいちばん上にしょうゆラーメン650円があるからそれを選ぶ確率が高くなるだけの話。しかも、その隣のチャーシューメンは850円。さらに値段は高くなっていき、中段、といってもかなり下にようやく味噌ラーメン650円がある。客からすれば、味噌ラーメンにたどり着くまでに、こんなに高いラーメン食えるか、と左上に戻ってしまうわけ。

遠方から食べにくるというのも、アンケート用紙にどこから来ましたか、という項目があって、その情報だと思うが、「わざわざ」なのか「たまたま」なのかは不明。たぶん「たまたま」何かのついでで遠方から来たのを、「わざわざ」来たものに仕立てただけだと思う。裏は取れないけど、店員が客とそんな立ち入った話をしているようすもなかったし。

まあ、そんなこんなで、新聞の記事がまた信用できなくなった一件であったのだった。