すごくかっこよくて実用的な英語の表現

銀行のATMや入国審査の列などに並んでいて、前の人の番になったにもかかわらず、機械とか窓口が空いたのに気づかないことってたまにありますよね。そんなとき、あなたなら、どう言って気づかせてあげますか?

日本語なら「空きましたよ」とかでしょうが、それを直訳するのも変だし、It’s your turn.とかいうのもなんとなく教科書っぽくてかっこよくないですよね。

「もしもし」のつもりで、Excuse me. とか軽くSorry.とか言うのもナントカのひとつ覚えっぽくてイマイチ感がありますね。

では、どう言うとかっこいいか。これは私が実際に入国審査の列でまったくそれと同じ状況で(私が気づかずにぼーっとしていて)、列の後ろで待っていたネイティブの人に言われた言葉です。それは、

Gentleman.

です。軽く語尾を上げた感じで。私は、かっちょいー、と感動したのと、慌てていたのとで、何も言葉を返せなかったのですが、いつか使ってやろうと思っています。その機会はほとんどないのですが……というのも、こういう言い方をするには、言う方もジェントルマンでないと様にならないからです。いやはや。

相手が女性なら、フランス語で、

MademoiselleかMadame

がかっこいいと思いますが、未婚か既婚か区別するのは差別だ、と言われると困りますね。

結社に入るのをためらう理由

たとえば、冷ご飯にラップをかけたものを展覧会に出展して「これが芸術だ」と私が言ったとしても、まったくといっていいほど無視されるだろう。というより、さんざんに罵倒されるだろう。だが、一流と言われる芸術家が同じものを出展したら、反応は大きく異なるはずだ。

また、たまたま同じ俳句を有名な俳人と私が作ったとしよう。仮に私のほうが先に作って発表していたとしても、たぶん私の作った句よりも有名な俳人の句のほうが高く評価されるはずだ。

現代の芸術は、誰の作品かということが重要なのはもちろんだが、それ以上に、誰が評価するかということがとても重要。芸術にも進化の系図みたいなものがあって、それらをふまえたうえで、最先端のさらに一歩先を行ったり、系図に新しい枝を書き加えることが、その作品の価値につながる。だから、それらをふまえず、たまたま、ポンと同じものを出したとしても評価されないというわけ。

デュシャンが出展するから、デュシャンを評価する人がいるから、便器が芸術になるというのと同じだ。

作品の良し悪しがすべてじゃないなんておかしい、という人もいるだろうが、そういう人は、何もわかっていないど素人だと蔑まれるのがオチ。

私は、それに異議を唱えようとする気はない。茶道でも、華道でも、柔道でも、剣道でも、型を身に付けたうえで、それを打ち破っていくのが、文字通り「型破り」なわけで、最初から無茶なことをやっても、それはただのお調子者でしかない。武道の場合だとたいていはそれでは勝てないのではっきりと分かる。

でも、俳句に関してはどうもそういう道筋をたどるのが疎ましく感じる。というのも、結社=伝統ではないからだ。結社を否定する気はないし、その中で揉まれるのは上達の近道だろうと思う。まあ、自分がそういう組織に合わないというのもあるし、打たれ弱いというのもある。けれども、自分で気づきたいのだ。近道ではないかもしれないが、師匠に指摘されて気づくのではなく、一週間後、半年後、一年後に、自分の句を読みかえして、こりゃいかんわ、と気づきたいのだ。俳句を始めた頃に

炎帝に頭を垂れる日輪草 恭烏

という句を作ったことがある。それから数年経つが、今なら、

炎帝に頭垂れたる日輪草 恭烏

という句にしただろう。さらに何年か経つとまた違う句にしたくなるかもしれないし、元の句のほうがよかった、と思うかもしれない。でも、師匠に添削されて、ハイ、ソウデスネ、とその場で納得してしまわずに、自分で気づきたいのだ。……というのは現時点での考え。もしかすると、この人に近づきたいという人が現れて結社に入るかもしれない(好きな俳人は何人かいるけど、今は、それらの人と私は違う、と思っている)。

あ、あと、全然違う話だけど「絡めとられる」ということについて書きたかったのだが、長くなるのでまたにしよう(←これは自分用メモ。忘れてしまわないように)。

対案を出せ、という人のことなど

最近思ったこと、いろいろ。

「対案を出してください」というのは一見異なる意見を認めているようだけれど、相手の口を塞ぐための方便なのかもしれない。自分がそもそも対案を考えていないか、相手の立場を重視していないからではないかと思う。本当に異なる意見を認めるのであれば「そういう視点は見落としていました。そういう思いを持つ人が納得できる案を一緒に考えてみましょう」のようになるだろう。その異なる意見を持つ人も同様なのだけど。

私は、どちらかというと、お金を使って経済回して元気になろうという考え方が好きではない(自分にお金が回ってこないのは嘆かわしいという身勝手な部分もあるけど、それは最低限のお金ってこと)。それは、資源の浪費にほかならず、子供のための食事を親が食べてしまうことだと思っている。将来にツケは残したくない。だから、もっとお金回そうぜ、という人には、こういう考え方の人もいる、ということを理解してほしい。と、同時に、私も、もっとお金回して、派手に行こうぜ、という人が大事だと思っていることを理解しないといけないと思う。なかなか難しいのだけれど、どこにどう使うとみんながうれしいのかという提案はできるのではないかと思う。

「利権」というと、いかにも腹黒いお代官様と業者の癒着を連想してしまうのだけれど、これまでの歴史の中で、業者の人たちがコツコツと築き上げてきたシステムでもあるわけなので、全否定するわけにもいかないと思っている。左方向の人はそういうのに目くじらを立てるかもしれないが(私もどちらかというと左寄りな教育を受けてきたので、そう思ったりするけれど)、労働組合の役員がたとえば就業時間内に組合活動をしたり、会社や庁舎の一部を使わせてもらったりしているのも、それと同じだと思う。「既得権」もやはりこれまでの歴史の中でコツコツと築き上げてきた労使の関係の上に成り立っているものだと思う。こちらも、全否定すべきでないと思う。

ただ、何につけ、それは「必要悪」だ、という人は、現状を変えるのが面倒で、問題から逃れたいだけの人ではないか、と思ったりする。必要悪はやっぱり悪だと思う。そういう悪を必要としないようにするにはどうすればいいのかを考えるべきだと思う。……と、きれいごとを言うのはたやすいし、私に何ができるというわけでもないのだけれど、それでもそういう思いを持っていることは大切かな、思う。

話はあちこち飛ぶ。岩波書店の採用はコネのある人のみ、というのが少し話題になっている。意図するところは、本気で入りたい人は石にかじりついてでもコネを作りなさい、そういうことのできる人に来てほしい、ということなのだと思う。でも、そうやって集まってきた人のコネって、結局内輪のコネだから、すぐに使えるかもしれないけれど、新しい展開には結びつかないのではないかと思う。まあ、コネを作ることのできる人ならどんどん外に出ることもできるだろうけど(でもそうではないかもしれない)。どうせやるなら、外にコネを持つ人を採用したほうがいいと思う。たとえば、岩波書店から著書を出していない著者とのコネ、とかね。ま、私もそういう著者にあたるのだけど、残念ながら私にコネ持っていてもあんまり役に立ちません。申し訳ない。

といったところで。